子供の頃から聞かされて来た
戦争中の話しです。
片道燃料で『特攻隊・人間魚雷』
当時、16、7歳〜の少年も出撃でした。
鹿児島・知覧『特攻平和会館』に
数年前、行きました、平和という文字・・
ちょっと違和感は拭えない会館でした。
重い気持ちでこの会館を後にした
記憶があります。
===================== 昭和25年〜28年位、夏休みは親戚の
家で過ごしていました。
母方の親戚そして母が迎えに来て
父の義弟(戦死)=お嫁さんのところへ
必ずお墓参りを兼ねて、行っていました。
母は自分の務めと思っていたようです。
義弟の忘れ形見、私にとって従兄弟と
暮らしていたお嫁さんを励まし、気に
掛けていました。
大分県内でしたから母の親戚そして、父の
親戚へ移動は、短い軽便鉄道でした。↓
父の弟=叔父は、南方諸島で亡くなり
遺骨で帰って骨壷の中『石』だったそうで
亡くなった事を、信じられないと言って
母はとても悲しんでいました。
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大体、母方の叔母さまの家が好きで
夏休み中は、過ごす事が多かったのです。
『母方の従姉妹の本音に、びっくりした私』
2021・9・22
に夏休みの思い出に触れています。
2021・9・22
に夏休みの思い出に触れています。
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1941年8月開戦、悲惨な
犠牲が多く、人生が180度変わってしまい、
苦しみを背負って生きて来た人は、日本内外
で多勢です。
人が集まって、皇居へ向かい泣いたそうです。
難しく戦争が、ただ終わったと思った人が
多かったと聞きました、
音声電波の環境も、悪かったはずです。
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