2021年9月22日水曜日

従姉妹の本音に、、びっくりした私。


母方の親戚で
唯一人、親しくしてくれている
Mちゃんからラインで


小さい秋見つけた〜♩のメロディーと
元気確認のメールでした。

私の従姉妹(私の母の妹、叔母様
の子供))の娘、Mちゃんとは毎年会って
昼食をしていました。 今は我慢です。
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既に、九州の従姉妹、Mちゃんの母(従姉妹)
も数年前に亡くなりました。
(ややこしいですが、Mちゃんは二従姉妹)
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小学校の時代(昭和25年〜)
母の妹(私にとって、優しい叔母様)
が大分県に住んでいました。私の従姉妹の
お姉さん達は私より3歳〜18歳上で、
4人の従兄姉でした。

その、大分県の家へ、春、夏、冬
休みに入ると母と共に沢山のお土産
をもって、大分の家に行き母は私を
預けて北九州へ帰り、10日位すると
連れに来るのです。
毎年の習慣になっていました。


〜〜〜その理由〜〜〜
戦後、ごちゃごちゃの時代でした。
北九州は製鉄所があったので
終戦前に爆撃で、
焼け野原になったと聞きました。

戦後ですから、家が無くなり、私の家に
同居の家族、祖母の遠縁も一緒でした。
それほど大きな家では無かったのですが
今から思うと母は優しい人で、
多くのことを受け入れておりました。

苦しい戦後、誰でもが助け合う事が
当たり前の時代だった気がします。

休みの暫くの期間は田舎の自然豊かな
空気の中でお姉さん達と、一緒に、と
 母なりの配慮だったと思います。

田舎の家参考写真ですが
大分県の叔母様の家は大きく、
広いお部屋でした。


家の前は広場、馬屋もあり、
従兄弟のお兄さんが馬で
駆けて行く事もありました。


母屋とお台所が別棟、お風呂も別棟
冬は寒かったですが、当時珍しく
お風呂場がタイルで綺麗でした。


母屋の隣が、隠居住居でおじいさんが
赤い鼻緒で草鞋を作ってくれた
のは、とっても嬉しかったです。

その隠居住居の納戸には、
古い物が沢山あって、
従姉妹・二従姉妹と、かくれんぼ
など、、、
ある時、従姉妹で一番私に近い
Kお姉ちゃんが言ったのです。

『00ちゃん(私の名前)、あまり来ないで、
お母ちゃん(母の妹)が
気を遣って大変だから』

びっくりしました。
(来てはいけなかった、、そう思いました)
大好きだったお姉ちゃんに言われた事が
ショックだったのです。

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十数年経って、父の葬儀で再会、
手を握って悲しみと、懐かしさの涙でした。




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