重病で倒れ、家族は、静岡市で社宅住居。
私たちは横浜で生活が始まったばかり。
それから10ヶ月後に
義母は、九州に帰って義父の養生と妹弟の
生活の準備で親戚を頼り、
取り敢えずの住まいの準備などの為、
義母は義妹宛に費用を送金して、
承諾され、荷物も送りました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
私達は、横浜→静岡へ。
そして家族揃って寝台車で静岡から中津へ
(当時九州日豊線は特急・富士だけが
乗り換えなしで中津へ行けたのです)
大勢の方々でいっぱいでした。
話が出来ない上、杖を頼りに歩く義父の姿に
会社の方々は涙、涙、、、でした。
ところが、用意されていると思った家は
用意されていなかったのです!
(何回もやりとりの結果、親戚を信頼して
でしたが、、)
その時、空き家の紹介があって車で
見に行きましたが、話になりませんでした。
(間に合わせで、見せられた気がしました)
〜〜〜〜家が無かった、その理由〜〜〜〜
当時、相当のお金を義母は送金しましたが
義妹の夫の仕事関係に一時的に?使われ、
帰郷はまだ先、、と思ったようでした。
(都合の良い様に考えたのかもしれません。
後々、知った事情でした)
(義父は長男、妹は3人でした)
耶馬溪の義妹の家に、少しの間お世話になり、
その後半年ぐらいかかって、新居が出来、
義母の親戚が近い事も、心強かったと思います。
当時50歳の義母でした。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
話を元に戻します。
中津の親戚に一時お世話になる事が決まって
私たちは、横浜へ帰る前、
北九州の私の実家へ寄ったのです。
両親、兄達の家族全員ですから、子供達も
入れて、十数人、、義姉達がキッチンで
奮闘していました。
父、兄達も『○○君大変だったなぁ』と
夫を労り、励ます会のようでした。
最後に兄達が帰り、母が大変よねえ〜と
肩を叩くと、夫は母にしがみ付いて
泣いたのです。
夫は28歳でした。
(夫の涙を見たのはこの時一度だけです)
私はその時は驚きと戸惑いでしたが
辛さを我慢して耶馬溪を後にし
母に優しくされて
辛さが吹き出したのでしょう。
母も泣いて肩をさする、ばかりでした。
ブログランキングに参加しています。
↓画像をクリックして応援してくださると嬉しいです!