12月8日はハワイ島へ日本軍が
爆撃をした開戦の日。
しかし、それ以前から戦争は
既に満州事変が起こっていて、
一つの戦争では無く、1914年から
始まった第一次世界大戦に参戦。
複合的に重なって
戦争は続いていました。
(ハワイ・真珠湾)
1941年12月8日〜1945年まで
続いた戦争=8月15日(終戦)
日本軍による太平洋・東南アジア地域へ
侵出による、アメリカ・イギリス、
オランダなど連合軍との戦争でした。
日本は唯一、原爆によって大打撃を
受け悲劇の戦争は終結でした・・
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横浜の団地生活時代、ママ友だった
0さんとは当時親しい友人でした。
数年前に、送られてきた『孫達の証言』と
『母たちの昭和史』です。
<友人0さんの微かな記憶>
『お父様は天国へ行ってしまったの』
0さんは妹と窓から見た星が
キラキラとしていたのは忘れられない
静岡が爆撃されるからと、母娘3人で
夜通し、貨車にゆられ疎開先へ
移動した事を断片的に思い出し
綴っています。
終戦を迎え、お父様は遺骨箱に石が
入っていただけ。
届けて下さった部隊の
届けて下さった部隊の
方の話では、後半〜作戦は程遠く
マラリア、飢えとの戦いで戦死とは
言い難い、無駄死にであったと・・
話したそうです。
お母様は、洋裁で生計を立て3人で
生活のつもりが、父の親族は若いから
と、再婚を勧め、Oさん姉妹は、
それぞれ別々の家族へ養女に迎えられ
たのです。Oさんは大声で泣き
母も泣いて選択の余地は無かったと
思う、、と綴っていました。
小学校3年から養女に迎えられ
慣れる のに10年、最初2年は
毎晩泣いて眠ったそうです。
Oさんはあまり家族の事は話さ無い
方でしたが、養父母のYさんは団地から
近い高級マンションに住んでいて、
Oさんは私立の中高一貫校、そして
大学まで進み、地域では頼りに
される存在でした。今は娘さんの
家族と一緒に都内で生活です。
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私は娘達から離され、他家へ嫁いだ
お母様を思いました。お母様が
娘達と離れ離れになり、どれ程辛く娘達を
案じて、眠れ無い夜を〜と思って
しまいました。戦争で珍しくない
悲劇です、、
文庫の仲間で、二人の友人は父親が亡く
なり、母が苦労、再婚・・
話が重なって、戦争は悲劇しか
ありません。世界で起こっている戦・・
弱い立場の人が苦しんで
います。終わって欲しい!
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