結婚で九州を離れるときに、母が
『結婚は覚悟をもって(まるで戦争に!?)
嫁いでいくものです』と。
* 絶対に、どんな事があっても
離婚で実家に戻って来ては、いけない。
(夫婦喧嘩の度に、この言葉が頭を過ぎって、
母が亡くなったら離婚出来ると思った事、
多々ありました(笑)
* お金の事で、兄達に迷惑をかけない事
お金では無く、随分色々な事で、助けて
もらったと思っています。
* 夫の実家を自分の家と思いなさい。
明治生まれの母でしたから、嫁ぎ先の
娘になりなさい、このような事だと
思います。
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離婚を認めなかった訳
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それは、母自信が辛い思いをした事が
原因だったと、後で分かりました。
祖父が早世(そうせい)したため、
とても美しく、教養人だった若い祖母は、
未亡人は惜しいからと、親戚中で
他家へ嫁ぐ事を勧められ、選択は出来ずに
嫁いだのだそうです。
母は早くに戸主となって、妹と親戚の
叔父様の家で育てられたようです。
母に会いたくて、何度も妹と会いに
行ったと、後々聞かされました。
〜〜〜〜〜〜〜戦前、戦後〜〜〜〜〜〜
母が娘時代、嫁ぎ先の祖母の夫が又
事故で亡くなって、若い母は祖母と一緒に
生活を始めたようです、茶道、盆景、刺繍、
水引細工の趣味を、楽しんでの生活。
四季折々の茶会で
祖母は歌を、一筆さらりと認め
楽しんだようです。
茶道は総合芸術と言われていますから。
焼き物、懐石料理、掛け軸、お花、
ナドナドですね、、
母の、この多趣味な感性が、
戦後の、物が無かった時代に発揮され、
工夫と努力で僅かな幸せ感が、暮らしの
中にありました。
このことに気付かされたのは、
結婚後の厳しい生活でした。
(玄関に置いている、母のビーズ刺繍)
父はその家の部屋を借りて、
船の会社へ出勤していました。
2回の縁談相手は父で、断り、
3回目も同じ(笑)
母が断った理由は、父の背が低かったから
と、笑って話していました。
母は大柄で、蚤の夫婦だったのです(苦笑)
父との縁談で祖母が『真面目な人』と勧め、
母25歳、父26歳で、結婚しました。
遅い結婚だったと思います。
母との3つの約束が守れたか、難しいですが
終盤を迎え、まだ、がたがたしながら
続く細い道になりそうです(苦笑)
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