昭和18年に生まれた私には
既に8年前に・・
2歳で亡くなった姉がいました。
その事を知ったのは、小学校に
入学前だったような記憶です。
親しくしていた『さっちゃん』が
私は、お母さんが亡くなったので
お母さんのお姉さんが今のお母さんに
なったから、本当のお母さんでは
無いのよ〜それを聞いて
私は、橋の下で泣いていたのを父が
可哀想だから・・・と連れてきて育てて
くれたのと、話してお互い慰め
合って親しくなったのです・・
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〜閑話〜
私が5歳の頃・お雛様の代わりに
『潮汲み人形』を飾っていました。
雛人形は高額だったのでしょう、、
人形制作の処へ、母が連れて
行ってくれた記憶があります。
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兄達から・・・
『おまえなぁ〜橋の下で泣いていて
父が可哀そうだから、拾って
来たんだよ〜だから年がこんなに
離れているから、仕方が無いんだ』
本当に、私は橋の下から拾われた
と思っていました、子供だから
それでこんなに年が違う・・・
可哀そうとか、惨めと言う感情は
無かったのです、、
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家が無く、母の姪夫婦・祖母・母の
叔父様も同居の時期がありました。
昭和20年代は・社会全体が
厳しかったと思います。
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さっちゃんから聞いた『橋のした・話』を
さっちゃんのお母さんから私の母が
聴いて、大変な事に。
兄達は『00子(私)は、あんた達の
おもちゃじゃ無いから!』と叱られ、
それから〜
写真を見せられたのは、7段飾りの
お雛様を前に、目がぱっちりの
2歳で数回手術後、亡くなった
姉の写真でした。
母は姉の着物を抱いて1週間
離さなかったと・聞きました。
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1966年・横浜で長女が生まれて
両親は初節句前、、
九州から来て、2DKの狭い
家だから、親王飾りは場所も
とらないしと、決めました。
『木目込み=真多呂雛人形』を毎年、
飾っていましたが・・
もう、数10年天袋の中だった
気がします。
急に夫が雛飾りを
飾りたいと言い始めて探しました。
近年〜古くなった思い出の品も
自分達で始末・・捨てる事も
精力が入ります・・・
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