〜〜日本舞踊から茶道へ〜〜
私は子供時代から元々お転婆さんと
母から言われ、男の子とチャンバラ
ごっこをするような、女の子でした。
4才から日本舞踊を習いに行かせられ、
これがとっても嫌で・・・
踊りの先生のところに行かずに
友達の家に押しかけては“踊ってあげる”と、
母に呆れられ、失望させ・・・(苦笑)
10才から初めて、最初は易しい
お点前からで、母が数ヶ月
教えてくれましたが、その内
母の妹弟子に当たると言う先生に、
結婚時まで通い、茶道の歴史を含め
教えて頂きました。
茶道は楽しく、季節毎の懐石料理や
お花、お菓子まで時期に合わせ、お料理も
先生が教えて下さったのです。
お正月の初釜から始まり
三月の節句、七夕 秋の月見
等、お茶会でした。
〜〜〜〜利休と秀吉のエピソード〜〜〜
利休が秀吉を夏の茶会に、招待をした時
庭のアサガオの花を全部切り落とし
茶室に一輪のアサガオが生けていました。
秀吉は驚いた、、とか
一輪のアサガオを愛でる事に
利休のセンスが際立って見えますね。
千利休はアーティストでもありました。
“利休好み”は、千利休が作らせたり、
選品の茶碗など茶杓は特別な品になり、
今で言う高級ブランドになって行きました。
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『茶道は判断力がつくから』が、
母の口癖でしたが、踊りもそうです。
兄達の中、娘らしく育て早く
嫁がせたい...が、
本音だったと思います。
何しろ母は私を、高齢で出産しましたから
貰い手が無く、兄達にお荷物になると困る...が、
『一番の理由』でした。
水指、花入、は私の作陶。
上の茶入れと丸卓台子は
『嫁入り道具の一つ』
〜〜私の支えになった茶道〜〜
千利休の 一期一会
茶室の中では上下関係は無く
(武士も商人もみな同じで対等)
亭主(お茶を点て茶会に招く側)も
招かれた客も対等。
一生に一度の出会い(一期一会)で
心を込めてお茶を点てる
(後悔をしないようにその時を生きるの意)
私は10才から21才まで通って
その先生の教室(茶室)で一緒に習って
いた時、親しくさせて頂いたのが
学校の先生のグループで30代ぐらいの
年上のお姉さん達でした。
私は兄達ばかりなので、何と無く
お姉さんに憧れていたせいか
直ぐに親しくなり、グループの方から
山登りを教わりました。
穂高岳
北アルプスの2000mから3000mの山々を
登られた方々と一緒に(私だけ初心者)
低い山登りから教えて頂きました。
私は900m止まりですが(笑)
ただ、この茶道と学んだ環境が、
数十年経って振り返ってみると
大切な経験でした。
人は誰にでも、あの時の『出会い』
『経験』が
今の自分の一部、なのかもしれませんね。
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お茶道具を出して、茶会で点てる事
の無いまま、数十年が経ち、
風炉、釜、そして風炉先屏風は
カビで処分をすることになり、
辛かったですが、父母に感謝です。
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ニュースはコロナ感染拡大の報道です、
まだ暫く我慢の毎日が続きますね。