2024年9月28日土曜日

『母と夫』の深い思い出〜①遺影を修復?


長年テレビの横に
私の両親の写真を置いています。
父の写真も随分前に気にして
古いネガを見つけ
夫が『写真店』へ行って修復を
依頼してくれました、、 ↓修復後の写真
数年前から、母の顔が白くなったのを
(手前の写真)
夫が気にし、大型スーパーの中、
『キタムラ写真店』に持って
いくと、和服姿の写真があると
修復が出来るかもしれませんと
  言われた夫・・
           
  古い写真の中から探して、、
3枚、持って行き、約20日間で
連絡がきました。
 私は自然に任せ、仕方がないわ、
写真だからと諦めていて、、
関心は無かったのですが
流石に、今回は夫に感謝でした。
◆この写真の修復代金は夫の小遣い
(25000円)から
支出で、、私に正確な金額を
言いません、自分がしたかった
 からと、家計費では無いのです、、
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<私達の結婚と同時>
OO家、、試練の始まりでした。

昭和39年に結婚して式は10月
 でした。
静岡の義父が突然倒れ、救急車
で病院に運ばれ重体・結婚式から
2週間目・・
 電報で知らせが来ました。

夜、会社から帰宅後、公衆電話で
会社の上司に連絡し、会社が
利用していたタクシー会社へ
ハイヤーを頼んで、、
着替えだけ用意して、横浜から
静岡へ向かい、、朝の4時頃に
着きました。義父(54歳)は当時
『鐘紡』に勤務し社宅住まいでした。
義母は50歳・義父未だ元気
だった・はずでした。
高校卒業後の方針が決まって
いた義妹、義弟は中学生でした。

父親大病から大きく変わって
しまった、私達家族の歴史?です。
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*ハイヤー代金は4万円で当時
 夫の月額給料と同じだったのです。
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<当時、静岡の済生会病院>
義母は義父に付きっきり・・・
義父は『脳血栓』で言葉が全く
話せず面会謝絶・危篤状態が
続いて、義父の妹3人が大分県から
面会だったり、、私は新横浜から
静岡へ家事他手伝う為、、毎週通う
ようにいきました・・・
昭和39年の10月に倒れ・・
翌年の8月に義母は、故郷で
生活をする計画で親戚と何回も
相談して・・・
前もって仮住まいの家を
義父の妹達3人に頼んで、義母は
送金をし翌年夏に九州へ〜義父母、
妹、弟、そして私達夫婦、、当時は
 特急寝台車で、九州へ行きました
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待っていたのは、意外な事
でした、、仮住まいの家は
 まだ・・用意されて無かった、、

義父の叔母様達3組の
方の説明でしたが、、夫は
どうしようも無く・・辛かった
この事は忘れられない事
でした。





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