国民学校の初等科だった
『大原文子さん』は
お母さんから・・・
『文ちゃん、いよいよアメリカ
と日本が戦争をしましたよ』と
言われ・『米英戦争』と題した
作文をお母さんの言葉から
書いた作文の事が『天声人語』
で、紹介していました。
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<私の戦後>
小学校から高校〜その後九州を
離れても『さっちゃん』とは
長く『ともだち』でした。
北九州で最後の同窓会は
10年以上前になります。
お互い両親・親族が亡くなって、、
年賀状も、終わりにしました。
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戦後の給食は・この『まずい!』
脱脂粉乳のお陰で・当時の私達は
救われたそうで、残すと先生に
叱られたのです。
さっちゃんのお母さんは
亡くなり『伯母様』がお母さんに
なった話を、家が近くで仲良し
だったさっちゃんから聞いて、、
私もそうなのよ・・
と・可哀想な私達を共有し、
慰めあって長く友人でした。
珍しい話では無く、兄達が私を
『おまえなぁ〜可哀想に橋の下
で泣いていたから、お父さんが
拾ってきたんだ、だからこんなに
年が離れて15歳、12歳も
違う兄妹なんだよ』その時
小学校?いえ5、6歳だった
と思います。
その話をさっちゃんから聞いて
『00さん!大変よ〜お宅の
Aちゃん、自分は橋の下で
拾われたって・話しているそうよ!
驚いた母は、兄達二人に
『0子にあんた達は面白がって
言ったそうだけど!』と
大目玉で〜その後母から私の
姉が3歳で当時医療設備が
不十分な中〜数箇所の手術後、、
亡くなり8年後に私が生まれて
戸籍は次女と話してくれました。
(私にお姉さんがいた!
嬉しかった事だけは覚えて
います)
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<身近で、あった話です>
私が元勤めていた貴金属店の
売り場責任者・戦後
ガード下で一人だったのを
当時の社長さんから声をかけられ
学校へ通いながら、家の
手伝いだった〜という
話を聞きましたから、戦争は
子供、そして弱い人には
酷な事ばかりです。
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戦争を嘆いて、師走に入り
ました〜今日は友人から
『クリスマスの思い出』を00会の
会報に・・と言われ少し
張り切っています♩
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